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いつも登場する男
建築のひとは映画に何かしらの強い興味を抱くが、逆はそれほど無い。
これは建築のもつ実際性が至極複雑なために映画のひとが建築に踏み込めないためだ。
そういうことを歴史家は述べた。
確かにそうかもしれない。
そしてこれが建築が芸術足り得ていないことの現れなのかもしれない。

建築と映画(映像)の決定的な違い。
それはブルーノ・ゼーヴィが言うように視点の自由度にある。
映画が何かしらの恣意的な視点を設定することで空間を体験する一方、建築はその体験に縛りがない。歩こうが逆立ちしようが匍匐前進しようが、それは体験者の自由なのである。

ところで、最近僕のまわりではコールハースのヴォイドの扱いがよく話題に上るが、歴史家によれば、それはノイズの無い空間としてのヴォイドであるらしい。
これはユリイカの特集でもさまざまな人が述べているようなことである。(コールハース自身も度々述べている。)

このヴォイドについてだが、前述の映画と建築の違いである「縛りの無さ」を担保するものとしてそれは存在するのだと僕はずっと思っていた。
これはA kind of architectureでコールハース自身が述べている、街を歩くなかでどれだけ我々は自由な選択を行っているのかという話から勝手にそう解釈していたものである。

しかしながらカサ・デ・ムジカを実際に体験した人たちが語るところによると、そこにはヴォイドの脚本性みたいなものが浮かび上がってくる。
縛りの無さという解釈が正しいとするならば、そこに圧倒的な脚本性(勿論それはイッツアスモールワールドのそれとは違うのだが)が存在するというところが、どうにも腑に落ちない。

僕は実際にコールハースの空間を体験したことがないので、その特殊な体験を脚本性としか呼べないのだが、実際にその圧倒的な脚本性を体験したときに『ヴォイド』を本当に理解することができるのだろうか。

因みに歴史家は、エデュカトリアムのあの湾曲点で初めて本当にノイズの無い空間を体験したと言っていた。そしてその空間におけるその理由は、反転した窓や壁、床にあると言っていた(勿論その理由と結果の逆はあり得ない)。

まあそんな感じで、酒の場にコールハースはいつも登場する。

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